「鋸山」は通称で、正式には乾坤山(けんこんざん)、標高329.4m。あのぎざぎざした稜線は自然の造形ではなく、幕末から1985年まで、およそ200年にわたって房州石を切り出し続けた跡です。
岩肌は「読める」
石切り場の壁をよく見ると、表情が二種類あります。斜めに細かく刻まれたノミ跡は、人が手で掘った時代のもの。垂直で平滑な壁は、戦後の機械切り。同じ石切り場の中でこの二つが切り替わっている場所があり、そこがちょうど機械化の境目です。壁を見るだけで、いつ削られた面なのかが分かります。
切り出した石は、担いで運ぶだけではありませんでした。「樋道(といみち)」と呼ばれる滑降路をこしらえて、石を斜面に滑らせて降ろしていたのです。登山道に残る車力道のわだち(ねこ車のブレーキ痕)とは別物で、足元に不自然にまっすぐな溝を見つけたら、それは石が滑り落ちていった道です。
石を切る山であり、石を彫る山だった
境内の千五百羅漢は、1779年から1798年まで21年をかけて、石工・大野甚五郎英令が門弟27人とともに彫り上げたものです。全部で1553体。ひとつとして同じ顔がありません。甚五郎は1798年、48歳で世を去りました。その墓は、自分が彫った羅漢たちの中にあります。
ただし、いま並んでいる羅漢のなかには首のない像が混じっています。明治初年の廃仏毀釈で、多くが首を落とされたからです。のちに「羅漢様お首つなぎ」という復元事業が行われて大半は繋ぎ直されましたが、それでも胴だけのまま残っている像があります。歩いていて首のない羅漢に出会ったら、それは風化ではなく、150年前に人が壊した跡です。
石切り場の壁が、観音になった
百尺観音は、垂直に切り立った石切り場跡の壁、そのものに彫られています。高さ30.3m。1960年に発願され、6年をかけて1966年に完成しました。戦争と交通事故で亡くなった人の慰霊が目的で、いまも交通安全の守り本尊とされています。石を採り尽くして用済みになった産業の跡が、そのまま祈りの場に作り変えられた——鋸山という山の性格が、いちばんよく出ている場所です。
現在、鋸山は日本遺産の候補地域に認定されています。